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バス停Kurhausからバス(5番)に乗りSaalburgで下車(約15分)。バスの本数が少ないので、バスを降りたら帰りの時刻を確認しておきましょう。

ザールブルグ城砦(Saalburg-Kastell)へ
ザールブルグ城砦(Saalburg-Kastell)へ

クアハウスから北西に5キロほど離れた森の中に、ローマ時代の遺跡ザールブルグ城砦(Saalburg-Kastell)があります。2005年7月ローマ帝国の国境(長城,リーメス)としてユネスコの世界文化遺産に登録されました。リーメスとは元々は境界や国境という意味だそうですが、現在はリーメスというと、このドイツの長城のことを指します。

リーメス以前

ローマの勢力圏 時代は古代のゲルマニア地方にまでさかのぼります。ゲルマン人の大移動が始まる以前から、ゲルマン人たちはバルト海沿岸から徐々に南下を始め、殺戮と略奪を繰り返しながらケルト人たちを南に追いやっていきます。ライン川の右岸(東)からドナウ川の左岸(北)に広がるゲルマニア地方のほとんどがゲルマン人の居住区になっていきました。
当時のゲルマン人のほとんどの男性は戦士を職業とし、戦利品を生活の糧にしていました。

そのころのローマの勢力は、西はイベリア、東はギリシャから小アジアまでという広大な領地を手に収め、強大な勢力を誇っていましたが、時々、北のほうから現れるこの野蛮人に悩まされるようになってきていました。

紀元前113年、ローマ領内の現在のオーストリアのあたりに侵入してきたゲルマン人を撃退するため、カルボー率いるローマ軍が出陣しますが、連戦連勝を誇っていたローマ軍も、恐ろしく大きな体で金髪を振り乱し青い目を光らせながら襲いかかるゲルマン人相手に、総崩れとなってしまいました。紀元前105年、南ガリア地方でもローマ軍はゲルマン人相手にまたしても大敗してしまいます。

ゲルマン人にとって戦争は、領地の拡張のためではなく生活の手段なので、戦いに勝利して戦利品を手にすると、それ以上、首都ローマを目指して攻め込んで来るということはなく、生活が潤っている間は、しばらくは戦うことはありませんでした。
ローマ軍にとってこれが幸いします。新しく司令官になったマリウスは、ゲルマン人が休んでいる間に、ゲルマン人攻略のための策を練り直し、ローマ軍の質を向上させます。

紀元前102年、さらに多くのゲルマン人が南ガリア地方に入ってきたので、マリウス率いるローマ軍はこれを撃退するために出陣。ほとんどのゲルマン人は殺されたり、捕らわれ奴隷として売られたりしました。さらに、紀元前101年、ローマ軍は北イタリアでも勝利を収めます。無事にゲルマニアに逃げ帰ることができたゲルマン人は数えるほどだったそうです。

その後、名将シーザーが登場します。、紀元前58年、シーザーの巧みな戦略により、ガリア地方にいたゲルマン人はほとんど殺され、かろうじて生き残ったゲルマン人もライン川を渡りゲルマニアに逃げて行きました。ガリアに入ろうとしていたゲルマン人もこの仲間の逃走をみて、ゲルマニアの奥地に引き込んでしまったそうです。

ローマ帝国時代

初代皇帝アウグストゥス(Imperator Caesar Augustus) こうしてローマ領は、ライン川の左岸(西)とドナウ川の右岸(南)まで再び広がります。シーザーの後を引き継いだアウグストゥスはローマ帝国初代皇帝となり、ドナウ川の右岸に前衛基地として戦略的な都市を建設していきます。紀元前15年にローマ帝国の前衛基地として建設された都市には、皇帝の名にちなんでアウグスタ・ウィンデリクムと名づけられました。これが現在のアウグスブルグになります。

しかし、ライン川とドナウ川に挟まれた三角地帯ゲルマニア地方はまだ未開拓のままで、依然としてゲルマン人が自由に生活していました。ライン川とドナウ川を自然国境として領地の防衛をすることに不安を感じていたアウグストゥスは、ゲルマニア地方の攻略を考えるようになります。

紀元前12年から紀元9年までの間、ドルスス率いるローマ軍は何度となくゲルマニアの奥深く、エルベ川のあたりまで侵攻します。しかしながら、ゲルマン人の激しい抵抗にてこずり、領地を拡張するまでにはいたりませんでした。

それまでゲルマン人たちはお互いの部族同士で争ったり、その戦い方というと、戦略や戦術などはなく、大きな体を利用して、金髪を振り乱し、青い目をぎらつかせて、雄たけびをあげながら襲いかかるというものでした。しかし、このころになると、幾度となるローマ軍の侵攻に対抗するため、部族同士の結束や、それなりの戦略も生まれ始めていました。

そして紀元9年歴史的な大事件トイトブルクの戦いが起こることになります。ゲルマン人は策略をこうじて、ワルス率いる3つの大軍団をゲルマニアの森の中におびき寄せます。森での生活に慣れているゲルマン人は、ゲリラ戦法でこの大軍団を全滅させてしまいます。皇帝アウグストゥスは狂気のように頭を壁にぶつけて嘆き悲しみ「ワルスよ余の3ヶ軍団を返せ」と叫び続けたそうです。(「世界歴史紀行ドイツ」紅山雪夫著から)

結局はライン川とドナウ川が自然国境となり、ライン川の左岸にも前衛基地として軍事都市を建設していきます。マインツ、コブレンツ、ボン、ケルンなど、このように、ローマ帝国が戦略的に築いた都市は、中世になり大発展することになります。現在のドイツでもライン川の左岸に大都市が多いのはこのためです。

その後も、アウグストゥスの意思を受け継いだ、後の第9代皇帝ヴェスパシアヌスが何度かゲルマニアへの侵攻を試みますが、いずれも失敗に終わっています。それに加え、ローマ帝国の内政にも不安が表れ始め、次第にゲルマニアへの執着は薄らいでいきました。

リーメスの建設

長城(リーメス) ゲルマニア地方への執着は薄らいでいったものの、依然としてゲルマン人に対する脅威は残っていました。首都ローマでは、「ゲルマニアには気味が悪いほど金髪で青い目をした、悪魔のような巨人が野獣のごとく生息している」というようにゲルマン人のことが言い伝えられていたほどでした。

1世紀末、第11代皇帝ドミティアヌスはこの脅威を払拭するため、ライン川とドナウ川の間の三角地帯に長城(リーメス)の建設を開始します。この建設に怒ったカッティ族はローマ軍と戦いますが、ゲルマンの1部族対ローマ軍では勝敗はあきらかでした。この戦いでリーメスの重要性が増し、建設は加速されていきます。

第13代皇帝トラヤヌス、第14代皇帝ハドリアヌスへ引き継がれ、第15代皇帝アントニヌス・ピウスの時代160年ごろ完成しました。全長580kmで、ライン川のヘニンゲン(Hönningen)からヴッテンブルグのロルヒ(Lorch)までを上部ゲルマニアリーメス(The Upper German Limes)、ロルヒからドナウ川のアイニンヒ(Eining)までをラエティアンリーメス(The Raetian Limes)と呼ばれています。
このふたつの区間のリーメスはそれぞれ工法が異なっていました。前者は空掘りを堀りその土をかき上げて土塁を作り、空掘りの向こう側に木の策を作るといった工法で、後者の方は城壁を石で作っていました。いずれも、一定間隔に見張りやぐらを設置し、ところどころに城砦を作り、城砦には兵隊が常駐して生活していました。その城砦のひとつがザールブルグ城砦です。

ローマ帝国の衰退

このどこまでも続くリーメスと城砦は、ゲルマン人の進入をくい止めることにある程度は役立ちましたが、長く続くことはありませんでした。ローマ帝国が衰退するにつれ、各地でゲルマンの部族が再びローマに対して抵抗を始めます。
260年ゲルマンのアレマン族がリーメスを越えて領内になだれ込んできました。結局ローマはリーメスを放棄して、国境線は再びライン川とドナウ川のあたりまで後退しました。

城砦は廃墟となり、近くに住む農民たちが利用する程度になっていきました。いつしか、リーメスも忘れ去られ、中世のころには、もうこれが何なのかさっぱりわからなくなっていました。森の中をどこまでも延々と続く一筋の溝と土塁は、中世の人たちにとって、ただただ不思議な存在なだけで、「悪魔の城壁」と呼ばれるようになっていました。

18世紀にザールブルグ城砦の一部が発掘されたことをきっかけにリーメスの研究が始まります。19世紀の中ごろからザールブルグ城砦の復元工事が開始され、第一次世界大戦の前には工事は完了していました。現在では、復元されたザールブルグ城砦は博物館になっていて、各地で発掘された出土品がザールブルグ城砦に集められ展示されています。



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